降参のススメ

阿雲の呼吸

Welcome to the Real World

先日、とあるメッセンジャーと話をしていて思ったのは、似たようなことを話しているように見えるけれど、その実、言っていることは全く違う。

傍から見ると、同じスピ系(?)の話に見えているかもしれないけれど、全く違う。

「もっともそうなこと」を話すんだけど、結局は思考が作りだした想像の話で、そういう世界が好きな人もいるから人気もあるけれど、 全く違う。


人に気にいられるためには、両者は違うだけでどちらも大切な話と言いたいところだけど、そんことはとても言えない。

だって、リアリティを話しているのか、想像の世界を話しているのかの違いは、「1」と「0」の違いであって、まったく違うのだから。



人は夢の世界に生きているから、夢の話に惹かれる。

そしてその自分の夢を強化してくれる人のメッセージにすがろうとする。


たとえば

「こうすれば幸せになれる」

「こうすれば悪いことが起きない」

みたいなね。


幸せも悪いことも夢の中の出来事に過ぎないんだから、いっそのこと目覚めてみないかっていう呼びかけは、多くの人にはなんのことかわからない。

夢の中の自分が解釈しているし、そもそも自分の現実を夢だなんて思っていないから。


夢の中で、これは夢だと気づきだしたごく少数の人が、このメッセージを受け取ってくれる人だと思う。


にもかかわらず、お互いたくさんの人に支持されてきたのは、たぶんたくさんの人が勘違いしてくれたからだろう(笑)



これからも夢を壊す活動をしていこう。

そのとき初めて「0」が「1」になる。


映画マトリックスで、どちらの錠剤を呑むかを選ぶシーンがあるけれど、リアリティへの錠剤をのんだ主人公は大変な目に合うことになる。


でも実際には、リアリティの世界は涅槃の世界であり、完全なる安らぎと満足の世界。

しかも瞬間、瞬間展開しているから、決して飽きることはない。



 Welcome to the Real World」
 

方便は、方便だから

>黒斎くんは、こういう例えが上手だから人に伝わりやすいんだと思う。

 

>とは言うものの黒斎くんには、このことが読み手に上手く伝わったとしても、何らかのジレンマが残るんじゃないだろうか。


はい、仰るとおりです。どんなに上手い例えができたとしても、結局、例えは例えでしかなくて、「そのもの」を話したことにはなりませんからね。

そして、「そのもの」は決して言葉にできるものではないときてる。

言葉が消失した世界を言葉で伝えようとしているわけですから、なかなかに歯がゆいです。


感情と思考と経験のすべてが失敗したとき、最後に言葉が使われる。

言葉はじつは、最も非効率的なコミュニケーション手段だ。最も曲解されやすいし、誤解されやすい。

どうしてか? それは言葉の性質のためだ。言葉はただの音にすぎない。感情や思考や経験の代用だ。シンボル、サイン、しるしでしかない。真実ではない。ほんものではない。



上記は、N・D・ウォルシュさんの著書『神との対話』の冒頭に記された一文ですが、本当にその通りだと思います。

僕の例え話や雲さんの話も同様に、様々な誤解を生む要素をはらんでいます。

だからこそ、言葉にジレンマはつきものです。

だっていくら理屈が分かっても、最も大切な「自分は実体ではなかった」ということを完全に知るには、自己を超える経験がない限り無理だと思うから。

阿部さんのこの言葉は事実で、また、例え話でもありません。

それでも、「自己を超える経験」という言葉が「自己」ありきで語られざるを得ないですよね。

そもそも「自己」はあったことがないのですから、それを「超える」ということも、本当はないわけで。

そうやって粗を探そうとすれば、どんな言葉にも欠点が見つかるような気がします。


方便は、どこまでいっても方便。

それでもこうして言葉を紡ぐことを続けているのには、いくつか理由があって。

言葉は、「観念の世界」にリアリティを持たせ、「幻想」を「現実」に書き換えてしまいますが、その一方で、言葉がその幻想を打ち砕き、夢から覚めるきっかけを与えてくれる力もあります。

それは、そう簡単なことではありませんが、だからこそ面白いのかもしれません。

方便は、僕たちが慣れ親しんだ常識やルールに亀裂を入れるもの。

その心構えがあるとないとでは、メッセージの意味が違って見えてくるでしょう。

常識を持ったままでは、まったく意味がわからない内容でも、「常識とは少しズレたところから発せられているのだ」という前提で向かい合えば、きっと「あ!」が訪れる。

そういうものだと思います。

『J MPWF ZPV』

転生の話

なるほど・・・

 

現象はあるけど実体はないか。

 

 

会社とか、何かのグループとかを例にとると分かりやすいね。

 

黒斎くんは、こういう例えが上手だから人に伝わりやすいんだと思う。

 

 

とは言うものの黒斎くんには、このことが読み手に上手く伝わったとしても、何らかのジレンマが残るんじゃないだろうか。

 

だっていくら理屈が分かっても、最も大切な「自分は実体ではなかった」ということを完全に知るには、自己を超える経験がない限り無理だと思うから。

 

それくらい自己という幻想には現実味がある。

 

 

このジレンマは僕も同じで、何度言い続けたところで、その言葉を自己が解釈する限り知識が一つ増えるだけであり、むしろ真理を知った自分として自己は増大する。

 

 

 

それでも伝え続けたくなるのは、いったい何だろうね。

 

しかもこれしか人生でやりたいことがないときている。

 

 

もちろん楽しいこともしていくだろうけど、生きがいとしてやりたいことはこれしかない。

 

こういうのをカルマって言うんだろうか。

 

 

大阪と名古屋のコラボトークで、2人で転生の話もしたよね。

「自己という実体」がないにも関わらず、転生という現象が起きるのはなぜか。

 

その答えは、思念・想念は肉体の死後もこの空間に留まり、それを第三者が引き入れた時、過去にその想念を持っていた人の生まれ変わりだと信じるのかもしれないということ。 

 

転生するのは「個としての魂」ではなく(そんなものは存在しないから)、何らかの思念・想念のようなものではないかというのが僕らの一致した考えだ。

  

 

ということは、過去に真実を伝えようとした人の想念を、2人共にキャッチしたってことかも。
 

 

しかも2人とも仏教系。

 

もっと詳しく言えば、禅宗、それも臨済宗。

 

ここまで一致している。

 

 

 

それなのに2人とも宗教界の人間ではなく一般人。

 

それが何かの拍子に同じ時期にブログを始めて、こうして出会って、プロのお坊さんたちからも一目置いてもらって、ささやかながらも活動を続けている。

 

これは奇跡に近いことで、何かの因縁として捉えたほうが合理的だと思う。

 

 

それでは何の因縁かと言った時、やはりそこには今生だけでは説明できない何かがあるのではと思うわけ。

 

 

それが何なのかはわからない。

 

すべてのことは、大いなる仕組みの中で自動的に起きているということだけは確信しているけれど(主体的自己の不在)、大いなる仕組みが何なのかということについては、ただただ摩訶不思議。

 

 

何も分からないけれど、分からないことは分からないままでいいわけで、結局最後に残るのは

 

 

合掌
 

 

思召すままに

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