降参のススメ

阿雲の呼吸

Rebirth

天河神社の件、改めましてお誘いくださいましてありがとうございました。

あの参拝から今日に至るまで、何度かその感想をブログなどで記載したいとは思ってはいたのですが、なかなか言葉に出来ずにおります。

決してインパクトのある出来事ではなかったのですが、現地で感じた不思議な感覚は、これまで阿部さんが「天河は人生の転機となるところ」とおっしゃっていたことを、肌で理解できるものでした。

非常に稀な星回りで迎えた新月の夜。

「母の胎内」と同じ氣。

陰の氣と陽の氣が交わるゼロポイント。

堀澤祖門さんではないですが、まさに『再誕』というキーワードがしっくりくる場でありました。

これまで神社やパワースポットなどと呼ばれる場でも、特に何かを感じることもない不感症気味な僕ですら、「え?」となれる何かが確かにありました。

でも、それを言葉に残そうとすると、途端に別物、大げさなファンタジーになってしまうのです。

また、参拝を通じて、フィジカルな次元で目に見える変化や御利益があったのかと問われても、「いや、特には何も」となってしまうわけで。

これまで阿部さんが多くを語らず「とにかく一度訪れてみてほしい」と仰っていたのが妙に納得できました。


>なにかインパクトがあることをしたかったわけでもなく、なんであれをやったのかは説明不能。
>来てくれた人達も、なんで自分があんなに遠いところまで来たのか解ってないんじゃないだろうか。
>こういうことって「やること」じゃなくて「起こること」なんだろうね。
>黒斎くんだって、いきなり強く勧められて、何が何だか分からないまま来たんじゃない?

まさにおっしゃる通りでして。
なぜ行ったのかもわからなければ、行って何があったのかもわからない。

でも、きっと後々振り返った時に、「ああ、そういうことだったのか」と思える予感は、ヒシヒシと感じています。


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天河

えええっ!!!

2週間もほっといたと??(博多風に)


思えば天河神社の神事が終わってからというもの、現実と神界のつなぎ目がわからなくなっていて、半ボケ状態。

あれは用意周到に準備したことじゃなくて、なんとなく周囲が盛り上がって、いつのまにか実現したって感じ。


なにかインパクトがあることをしたかったわけでもなく、なんであれをやったのかは説明不能。

来てくれた人達も、なんで自分があんなに遠いところまで来たのか解ってないんじゃないだろうか。

こういうことって「やること」じゃなくて「起こること」なんだろうね。


黒斎くんだって、いきなり強く勧められて、何が何だか分からないまま来たんじゃない?

自分では理由は分からなくても、天河にいたことだけは事実なわけで、頭の中のストーリーとは関係なく現実が起きているのでしょう。


一休禅師と天河の関係は、宮司さんもきちんと説明しなかったけれど、いろんな人から何らかの因縁を聞いたことがある。

間接的な話になっちゃうけど、僕が天河にいた当時、アメリカの女優「シャーリーマックレーン」が書いた自伝「アウト・オン・ア・リム」(山川夫妻翻訳)がヒットしていた。

そのシャーリーが

「私は一休禅師の愛人だった森女の生まれ変わり」

と公言していたと同時に、彼女が南米のシャーマンからもらった大切なお守りが天河神社の五十鈴と同じ形をしていて、そんな話で一時は盛り上がっていた。


あと、映画監督の龍村仁さんに天河神社に行くように勧めた時、彼は天河の写真を見て、

「ここは僕と縁がある。そして僕は一休の生まれ変わりみたいな気がするから、きっとここは一休とも関係がある」

と言って、すぐに天河にやってきた。


龍村さんはその後すっかり天河の人になっちゃったし、天河は人を魅了する何かがあるのかもしれない。

一休さんは北朝の人だし、森女は南朝ゆかりの人と言われていて、天河は南朝の御所があった場所だし、何か因縁があったとしてもおかしくない。


全部推測だけどね。


そんなこんなで、黒斎くんも天河デビュー。

めでたし、めでたし。



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衆生本来 真水なり

水のたとえは素敵ですね。

「上善は水の如し」じゃないけれど、古くから様々な角度でメタファーと使われてきたのも頷けます。

さて、今回は阿部さんの独り言に乗って、「濁り水」のお話をしたいと思います。


本来清らかな水を濁らせているものは何なのか。

それが、「観念」「言葉」なのだと思うのです。

人それぞれ、『人生』という水に「観念」「言葉」という味付けをして飲んでいる。

そういう意味では、「濁り」というより「調味料」や「香料」「添加物」といったところでしょうか。

砂糖を加えて甘くする人もいれば、塩を加えて辛くする人もいる。


「ノドが乾いているなら、砂糖水や塩水ではなく、真水を飲んではいかがですか?」と投げかけても、「それは味も素っ気もなさそうだ。どうせなら某かの味の付いたものをくれ」と返されてしまう。

このやりとりが、古くから宗教・精神世界で続いていたように感じられます。


塩水は、飲めば飲むほどノドが渇く。

人の飽くなき欲望は、そこに端を発っしているのでしょう。


まさに、

衆生近きを知らずして

遠く求むるはかなさよ

譬えば水の中に居て

渇を叫ぶが如くなり

ですね。


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