降参のススメ

阿雲の呼吸

2017年10月

続・出家

出家の「家」が何を意味するかだけど・・・

 

それは家庭や家族のこと、あるいはその延長にある社会全般と思うのが一般的です。

 

しかし、この出家の「家」という言葉の本当の意味は、人間が概念で作りだしてきた世界すべてのことです。

 

家族も、会社も、社会も、世界も、実体ではなく、人間が作り出している関係のことであり、イメージ(概念)の産物です。

 

そして人は皆、自らが作り出した概念の世界がリアルな世界だと思って生きています。

 

それを夢、またはマーヤと呼びます。

 

 

出家とは概念が作り出した世界である「夢」からの出家です。

 

 

黒斎くんが言うように、「私は出家した。私は家族と社会を後にした。」というのは、本当の出家ではありません。

 

その人は再びヒマラヤの洞窟で、あらたな概念の世界(家)を作り出すことでしょう。

 

社会を後にした自分として(笑)

 

 

その気になればこの瞬間に出家は可能です。

 

そして社会の中で生きることもできます。

 

これが究極の出家の意味です。

 

 

しかしその一歩手前の、社会を後にして道を求めるという純粋な姿勢も効果を発揮することがあります。

 

やはり人間は環境の産物なので、全員が夢を見ている社会の中で、夢を夢と見抜くチャンスはほとんどありません。

 

そのような環境から離れる時間も大切だと思います。

 

 

一番手軽なのは瞑想です。

 

瞑想はわずかな時間の出家です。

 

 

そしてたとえ数日でも的を射たリトリートに身を置くのもいいでしょう。

 

でもたいていのリトリートは、夢の自分をより高めることに焦点が当たっていて、いま以上の自分になることを目指しています。

 

そういうもののほうが分かりやすいし人気もありますが、禅の修行道場で行われているのは夢そのものから目覚めようとする試みです。

 

 

西洋は夢を向上させることを何よりの目標としていますが、日本では早くからこの真理に根付いた伝統があり、それがいまだに残っているのですから、興味深い国だと言えます。

 

茶道も武道も、究極的には自己の不在を目指しています。

 

 

やっぱり人間には瞑想が必要だと思います。

 

子供のころから教えてあげたら、だいぶ楽になる子供も増えると思うな。

 

評価されるばかりじゃなく、そんなことよりもっと大切なものがすでに自分に備わっているという安心感。

 

 

出家という言葉を出してくれたおかげで、今日も言いたいことが言えました(^^)

出家

いや〜、ごめんなさい。

なんだかんだと小忙しくて、気がついたら1週間が過ぎちゃってました……。

ホントにあっという間だなぁ。

さて、そんな時の流れの早さを感じつつ、マトリックスを思い出してみれば、あの映画が公開されたのは1999年。

なんと、もう18年も前なんですね。

あの年に生まれた子が、高校卒業しちゃうよ!

そりゃ僕もオジさんになるし、ウォシャウスキー兄弟もいつの間にか姉妹になるわけだ……。


ところでこの映画の中では、高度に発達したコンピューターが作り出した仮想現実を『MATRIX』と呼んでいるけど、本来『MATRIX』は、ラテン語の「母」を意味する「mater」から派生した言葉。

それが転じて「母体」「基盤」「基質」「そこから何かを生み出す背景」などの概念を表すと言われています。

だから、その意味合いは『道(TAO)』と同じなのかもしれません。


色々なメタファーや示唆に溢れるこの映画。

気づくとついつい「なるほど!」と膝を叩いてしまう名シーンが多々あります。


「自我」のメタファーである「エージェント・スミス」は、主人公「ネオ」を夢(仮想現実)に留めようとします。

彼は決して、「ネオ」を「ネオ」とは呼びません。

「ミスター・アンダーソン」、必ずそう呼びます。

「何者でもない」、ある種の「記号」としての名ではなく、
「ミスター・アンダーソン」という「社会的役割」「パーソナリティー」に呼びかけて「社会(仮想現実)」に引き戻そうとします。

人は夢の世界に生きているから、夢の話に惹かれる。

これは、「人は社会に生きているから、社会の話に惹かれる」と言い換える事ができますよね。

「人は社会に生きている」、この当たり前が当たり前と感じられるからこそ、夢の中にいることに気づくのは難しい。

だから、社会から逸脱してしまわなければいけないのだけど、この「社会から逸脱する」という言葉もまた、誤解を生んでしまう。

「社会から逸脱する」というのは、「脱社会的な生き方」のことで、決して「反社会的な生き方」を意味しているわけありません。

「脱社会」は、社会の枠から外れた生き方。

言い換えるなら、あらゆる「役割」や「取引」から自由になった状態です。

一方「反社会」は、社会の枠の中で、それに抵抗する生き方。

準じていようが、反していようが「社会」というものに関与しているという意味では、同列です。

そうして世俗を離れるところに「出家」がある。

なのに、某女優さんは、「出家して教団においての新しい役割を担う」なんてことになってしまった。

あらゆる役割・取引から自由になるところに「出家」があったはずなのに……。


モーフィアスが薬の選択を求めるあのシーンは、まさに「出家」の意思を確認する、そんな意味合いですよね。

Welcome to the Real World

先日、とあるメッセンジャーと話をしていて思ったのは、似たようなことを話しているように見えるけれど、その実、言っていることは全く違う。

傍から見ると、同じスピ系(?)の話に見えているかもしれないけれど、全く違う。

「もっともそうなこと」を話すんだけど、結局は思考が作りだした想像の話で、そういう世界が好きな人もいるから人気もあるけれど、 全く違う。


人に気にいられるためには、両者は違うだけでどちらも大切な話と言いたいところだけど、そんことはとても言えない。

だって、リアリティを話しているのか、想像の世界を話しているのかの違いは、「1」と「0」の違いであって、まったく違うのだから。



人は夢の世界に生きているから、夢の話に惹かれる。

そしてその自分の夢を強化してくれる人のメッセージにすがろうとする。


たとえば

「こうすれば幸せになれる」

「こうすれば悪いことが起きない」

みたいなね。


幸せも悪いことも夢の中の出来事に過ぎないんだから、いっそのこと目覚めてみないかっていう呼びかけは、多くの人にはなんのことかわからない。

夢の中の自分が解釈しているし、そもそも自分の現実を夢だなんて思っていないから。


夢の中で、これは夢だと気づきだしたごく少数の人が、このメッセージを受け取ってくれる人だと思う。


にもかかわらず、お互いたくさんの人に支持されてきたのは、たぶんたくさんの人が勘違いしてくれたからだろう(笑)



これからも夢を壊す活動をしていこう。

そのとき初めて「0」が「1」になる。


映画マトリックスで、どちらの錠剤を呑むかを選ぶシーンがあるけれど、リアリティへの錠剤をのんだ主人公は大変な目に合うことになる。


でも実際には、リアリティの世界は涅槃の世界であり、完全なる安らぎと満足の世界。

しかも瞬間、瞬間展開しているから、決して飽きることはない。



 Welcome to the Real World」
 

方便は、方便だから

>黒斎くんは、こういう例えが上手だから人に伝わりやすいんだと思う。

 

>とは言うものの黒斎くんには、このことが読み手に上手く伝わったとしても、何らかのジレンマが残るんじゃないだろうか。


はい、仰るとおりです。どんなに上手い例えができたとしても、結局、例えは例えでしかなくて、「そのもの」を話したことにはなりませんからね。

そして、「そのもの」は決して言葉にできるものではないときてる。

言葉が消失した世界を言葉で伝えようとしているわけですから、なかなかに歯がゆいです。


感情と思考と経験のすべてが失敗したとき、最後に言葉が使われる。

言葉はじつは、最も非効率的なコミュニケーション手段だ。最も曲解されやすいし、誤解されやすい。

どうしてか? それは言葉の性質のためだ。言葉はただの音にすぎない。感情や思考や経験の代用だ。シンボル、サイン、しるしでしかない。真実ではない。ほんものではない。



上記は、N・D・ウォルシュさんの著書『神との対話』の冒頭に記された一文ですが、本当にその通りだと思います。

僕の例え話や雲さんの話も同様に、様々な誤解を生む要素をはらんでいます。

だからこそ、言葉にジレンマはつきものです。

だっていくら理屈が分かっても、最も大切な「自分は実体ではなかった」ということを完全に知るには、自己を超える経験がない限り無理だと思うから。

阿部さんのこの言葉は事実で、また、例え話でもありません。

それでも、「自己を超える経験」という言葉が「自己」ありきで語られざるを得ないですよね。

そもそも「自己」はあったことがないのですから、それを「超える」ということも、本当はないわけで。

そうやって粗を探そうとすれば、どんな言葉にも欠点が見つかるような気がします。


方便は、どこまでいっても方便。

それでもこうして言葉を紡ぐことを続けているのには、いくつか理由があって。

言葉は、「観念の世界」にリアリティを持たせ、「幻想」を「現実」に書き換えてしまいますが、その一方で、言葉がその幻想を打ち砕き、夢から覚めるきっかけを与えてくれる力もあります。

それは、そう簡単なことではありませんが、だからこそ面白いのかもしれません。

方便は、僕たちが慣れ親しんだ常識やルールに亀裂を入れるもの。

その心構えがあるとないとでは、メッセージの意味が違って見えてくるでしょう。

常識を持ったままでは、まったく意味がわからない内容でも、「常識とは少しズレたところから発せられているのだ」という前提で向かい合えば、きっと「あ!」が訪れる。

そういうものだと思います。

『J MPWF ZPV』

転生の話

なるほど・・・

 

現象はあるけど実体はないか。

 

 

会社とか、何かのグループとかを例にとると分かりやすいね。

 

黒斎くんは、こういう例えが上手だから人に伝わりやすいんだと思う。

 

 

とは言うものの黒斎くんには、このことが読み手に上手く伝わったとしても、何らかのジレンマが残るんじゃないだろうか。

 

だっていくら理屈が分かっても、最も大切な「自分は実体ではなかった」ということを完全に知るには、自己を超える経験がない限り無理だと思うから。

 

それくらい自己という幻想には現実味がある。

 

 

このジレンマは僕も同じで、何度言い続けたところで、その言葉を自己が解釈する限り知識が一つ増えるだけであり、むしろ真理を知った自分として自己は増大する。

 

 

 

それでも伝え続けたくなるのは、いったい何だろうね。

 

しかもこれしか人生でやりたいことがないときている。

 

 

もちろん楽しいこともしていくだろうけど、生きがいとしてやりたいことはこれしかない。

 

こういうのをカルマって言うんだろうか。

 

 

大阪と名古屋のコラボトークで、2人で転生の話もしたよね。

「自己という実体」がないにも関わらず、転生という現象が起きるのはなぜか。

 

その答えは、思念・想念は肉体の死後もこの空間に留まり、それを第三者が引き入れた時、過去にその想念を持っていた人の生まれ変わりだと信じるのかもしれないということ。 

 

転生するのは「個としての魂」ではなく(そんなものは存在しないから)、何らかの思念・想念のようなものではないかというのが僕らの一致した考えだ。

  

 

ということは、過去に真実を伝えようとした人の想念を、2人共にキャッチしたってことかも。
 

 

しかも2人とも仏教系。

 

もっと詳しく言えば、禅宗、それも臨済宗。

 

ここまで一致している。

 

 

 

それなのに2人とも宗教界の人間ではなく一般人。

 

それが何かの拍子に同じ時期にブログを始めて、こうして出会って、プロのお坊さんたちからも一目置いてもらって、ささやかながらも活動を続けている。

 

これは奇跡に近いことで、何かの因縁として捉えたほうが合理的だと思う。

 

 

それでは何の因縁かと言った時、やはりそこには今生だけでは説明できない何かがあるのではと思うわけ。

 

 

それが何なのかはわからない。

 

すべてのことは、大いなる仕組みの中で自動的に起きているということだけは確信しているけれど(主体的自己の不在)、大いなる仕組みが何なのかということについては、ただただ摩訶不思議。

 

 

何も分からないけれど、分からないことは分からないままでいいわけで、結局最後に残るのは

 

 

合掌
 

 

思召すままに

LINE読者登録QRコード
LINE読者登録QRコード