降参のススメ

阿雲の呼吸

2017年11月

天河

えええっ!!!

2週間もほっといたと??(博多風に)


思えば天河神社の神事が終わってからというもの、現実と神界のつなぎ目がわからなくなっていて、半ボケ状態。

あれは用意周到に準備したことじゃなくて、なんとなく周囲が盛り上がって、いつのまにか実現したって感じ。


なにかインパクトがあることをしたかったわけでもなく、なんであれをやったのかは説明不能。

来てくれた人達も、なんで自分があんなに遠いところまで来たのか解ってないんじゃないだろうか。

こういうことって「やること」じゃなくて「起こること」なんだろうね。


黒斎くんだって、いきなり強く勧められて、何が何だか分からないまま来たんじゃない?

自分では理由は分からなくても、天河にいたことだけは事実なわけで、頭の中のストーリーとは関係なく現実が起きているのでしょう。


一休禅師と天河の関係は、宮司さんもきちんと説明しなかったけれど、いろんな人から何らかの因縁を聞いたことがある。

間接的な話になっちゃうけど、僕が天河にいた当時、アメリカの女優「シャーリーマックレーン」が書いた自伝「アウト・オン・ア・リム」(山川夫妻翻訳)がヒットしていた。

そのシャーリーが

「私は一休禅師の愛人だった森女の生まれ変わり」

と公言していたと同時に、彼女が南米のシャーマンからもらった大切なお守りが天河神社の五十鈴と同じ形をしていて、そんな話で一時は盛り上がっていた。


あと、映画監督の龍村仁さんに天河神社に行くように勧めた時、彼は天河の写真を見て、

「ここは僕と縁がある。そして僕は一休の生まれ変わりみたいな気がするから、きっとここは一休とも関係がある」

と言って、すぐに天河にやってきた。


龍村さんはその後すっかり天河の人になっちゃったし、天河は人を魅了する何かがあるのかもしれない。

一休さんは北朝の人だし、森女は南朝ゆかりの人と言われていて、天河は南朝の御所があった場所だし、何か因縁があったとしてもおかしくない。


全部推測だけどね。


そんなこんなで、黒斎くんも天河デビュー。

めでたし、めでたし。

衆生本来 真水なり

水のたとえは素敵ですね。

「上善は水の如し」じゃないけれど、古くから様々な角度でメタファーと使われてきたのも頷けます。

さて、今回は阿部さんの独り言に乗って、「濁り水」のお話をしたいと思います。


本来清らかな水を濁らせているものは何なのか。

それが、「観念」「言葉」なのだと思うのです。

人それぞれ、『人生』という水に「観念」「言葉」という味付けをして飲んでいる。

そういう意味では、「濁り」というより「調味料」や「香料」「添加物」といったところでしょうか。

砂糖を加えて甘くする人もいれば、塩を加えて辛くする人もいる。


「ノドが乾いているなら、砂糖水や塩水ではなく、真水を飲んではいかがですか?」と投げかけても、「それは味も素っ気もなさそうだ。どうせなら某かの味の付いたものをくれ」と返されてしまう。

このやりとりが、古くから宗教・精神世界で続いていたように感じられます。


塩水は、飲めば飲むほどノドが渇く。

人の飽くなき欲望は、そこに端を発っしているのでしょう。


まさに、

衆生近きを知らずして

遠く求むるはかなさよ

譬えば水の中に居て

渇を叫ぶが如くなり

ですね。

真夜中の独り言

人は自分の知らないことを想像することができない。
未知のことを既知の中で理解してしまう。

さらに人は、他者を見下す傾向を持っているので、そんな人たちに対して人生を超えたメッセージを伝えるのは本来無理なことだ。

狂信的な何かにハマって、わけのわからないことを言っている奴に見られるのがオチだ。

だからこそ、黒斎くんのように全く違う背景を持った人と組むことで、何かしらの説得力が生まれると思っている。


人生を超えた理解は、人生を超える体験を持って初めて可能になる。

しかし残念ながらその体験は、人為的に作り出すことができず、ハプニングとしてしか起こり得ないときている。

そうなるともうお手上げだ。


黒斎くんが言うように、これまでにもいろんなエネルギーを浴びてきた。

それはこれからも続くだろう。


にもかかわらず、おせっかいにもそんな話をし続けるのは、そんな話をせずにはいられないからだ。

にごり水を飲料水として用いてきた村で、ある時、谷間から湧き出る清水を見つけてしまったら、今までの水はもう飲めなくなってしまう。

そして村人たちに、本当の水はもっと透明でおいしいんだって伝えたくなる。


濁り水で満足している村人たちは、そのような話に興味が持てず、わけのわからないことを言って人を惑わしている怪しい奴だと考える。

でも中には、こんな水よりもっとおいしい水があるはずだと考える村人もいる。

僕はそんな人たちを相手に話をしてきたと思う。


ところがある時、村の中だけでなく、世界中の人たちに情報発信する技術が登場した。

それによって耳を傾ける人の数が飛躍的に増えたのが僕にとっては10年前だ。

その分、誤解のエネルギーも増えたけど。


誤解だけじゃなく、嫉妬も増えたように思う。

自分のほうが人生について正しく理解しているのに、なんで偽物のお前ばっかり上手くやっているんだってね。


おっと、今日は長くなり過ぎたかな。


この文章は文字入力をしたのではなく、音声入力で書いたので、つい長くなってしまった。

それにしても入力の精度が上がったものだ。

いくつかの誤変換があるものの、ほぼ完璧に文章にしてくれた。

このまま載せることにしよう。

思ってたんと違う

どんなカテゴリーにしてもそうだとは思うのですが、宗教やスピリチュアル、精神世界などでは特に、多くの「誤解」が付きまとっているように感じます。

僕自身、かつてはひどく宗教やスピリチュアルを毛嫌いしていましたし。

いや、正確には「毛嫌い」するというよりも、まったく眼中にありませんでした。

どんな教えなのか、何が語られているのかもまったく知らないまま、「怪しい」「いかがわしい」といったレッテルを貼り、それらに傾倒する方々を鼻で笑っていたというか。

「人生がうまくいっていない人、社会との円滑なコミュニケーションがとれない可哀想な人、あるいは、いい人ぶりたい人の吹き溜まり」みたいなイメージがあって、「僕はそんなところに足を踏み入れたくない」と距離を置いていたんです。

いま思えば、ひどく偏ったものの見方をしてたもんだと苦笑いしてしまいますが、実際のところ、僕もあの一瞥がなければ、そんな感覚を持ち続けたままだったでしょう。

きっと僕たちの活動においても同様で、話の内容を把握できていないまま、なんとなくで「いかがわしい」って思われてるところもあるんでしょうね。

実際、ブログのコメント欄を見ると「そういうことじゃないんだけどなぁ」という書き込みがチョイチョイ。

かつてそういう立場で世界を見ていたからこそ、その気持ちも十分わかるんですよね。

でも、実際にその気づきを目の当たりにしたら、きっと「ああ、そういうことだったのか」「思ってたんと違う!」ってなると思うんですね。

これは、否定派も、肯定派も同様に。

それこそ、僕も阿部さんも、言ってみれば宗教的にも門外漢ですし、何がしかの証拠を示せるような事柄でもないわけですから、なおのこと怪しさ倍増、胡散臭さ汁だくなのですよ。

阿部さんは、僕以上に何年・何十年とお話を続けてこられたわけですから、やっぱり「そういうことじゃないんだけど……」と、あらぬ批判を浴びることもあったと思いますが、そんな中で一番に感じる『誤解』『勘違い』って、どんなところだと思いますか?



\トークライブ・インフォメーション/

台風で延期となった『阿雲の呼吸』トークライブ・福岡公演は、12月2日(土)の開催となりました。

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