>黒斎くんは、こういう例えが上手だから人に伝わりやすいんだと思う。

 

>とは言うものの黒斎くんには、このことが読み手に上手く伝わったとしても、何らかのジレンマが残るんじゃないだろうか。


はい、仰るとおりです。どんなに上手い例えができたとしても、結局、例えは例えでしかなくて、「そのもの」を話したことにはなりませんからね。

そして、「そのもの」は決して言葉にできるものではないときてる。

言葉が消失した世界を言葉で伝えようとしているわけですから、なかなかに歯がゆいです。


感情と思考と経験のすべてが失敗したとき、最後に言葉が使われる。

言葉はじつは、最も非効率的なコミュニケーション手段だ。最も曲解されやすいし、誤解されやすい。

どうしてか? それは言葉の性質のためだ。言葉はただの音にすぎない。感情や思考や経験の代用だ。シンボル、サイン、しるしでしかない。真実ではない。ほんものではない。



上記は、N・D・ウォルシュさんの著書『神との対話』の冒頭に記された一文ですが、本当にその通りだと思います。

僕の例え話や雲さんの話も同様に、様々な誤解を生む要素をはらんでいます。

だからこそ、言葉にジレンマはつきものです。

だっていくら理屈が分かっても、最も大切な「自分は実体ではなかった」ということを完全に知るには、自己を超える経験がない限り無理だと思うから。

阿部さんのこの言葉は事実で、また、例え話でもありません。

それでも、「自己を超える経験」という言葉が「自己」ありきで語られざるを得ないですよね。

そもそも「自己」はあったことがないのですから、それを「超える」ということも、本当はないわけで。

そうやって粗を探そうとすれば、どんな言葉にも欠点が見つかるような気がします。


方便は、どこまでいっても方便。

それでもこうして言葉を紡ぐことを続けているのには、いくつか理由があって。

言葉は、「観念の世界」にリアリティを持たせ、「幻想」を「現実」に書き換えてしまいますが、その一方で、言葉がその幻想を打ち砕き、夢から覚めるきっかけを与えてくれる力もあります。

それは、そう簡単なことではありませんが、だからこそ面白いのかもしれません。

方便は、僕たちが慣れ親しんだ常識やルールに亀裂を入れるもの。

その心構えがあるとないとでは、メッセージの意味が違って見えてくるでしょう。

常識を持ったままでは、まったく意味がわからない内容でも、「常識とは少しズレたところから発せられているのだ」という前提で向かい合えば、きっと「あ!」が訪れる。

そういうものだと思います。

『J MPWF ZPV』