いや〜、ごめんなさい。

なんだかんだと小忙しくて、気がついたら1週間が過ぎちゃってました……。

ホントにあっという間だなぁ。

さて、そんな時の流れの早さを感じつつ、マトリックスを思い出してみれば、あの映画が公開されたのは1999年。

なんと、もう18年も前なんですね。

あの年に生まれた子が、高校卒業しちゃうよ!

そりゃ僕もオジさんになるし、ウォシャウスキー兄弟もいつの間にか姉妹になるわけだ……。


ところでこの映画の中では、高度に発達したコンピューターが作り出した仮想現実を『MATRIX』と呼んでいるけど、本来『MATRIX』は、ラテン語の「母」を意味する「mater」から派生した言葉。

それが転じて「母体」「基盤」「基質」「そこから何かを生み出す背景」などの概念を表すと言われています。

だから、その意味合いは『道(TAO)』と同じなのかもしれません。


色々なメタファーや示唆に溢れるこの映画。

気づくとついつい「なるほど!」と膝を叩いてしまう名シーンが多々あります。


「自我」のメタファーである「エージェント・スミス」は、主人公「ネオ」を夢(仮想現実)に留めようとします。

彼は決して、「ネオ」を「ネオ」とは呼びません。

「ミスター・アンダーソン」、必ずそう呼びます。

「何者でもない」、ある種の「記号」としての名ではなく、
「ミスター・アンダーソン」という「社会的役割」「パーソナリティー」に呼びかけて「社会(仮想現実)」に引き戻そうとします。

人は夢の世界に生きているから、夢の話に惹かれる。

これは、「人は社会に生きているから、社会の話に惹かれる」と言い換える事ができますよね。

「人は社会に生きている」、この当たり前が当たり前と感じられるからこそ、夢の中にいることに気づくのは難しい。

だから、社会から逸脱してしまわなければいけないのだけど、この「社会から逸脱する」という言葉もまた、誤解を生んでしまう。

「社会から逸脱する」というのは、「脱社会的な生き方」のことで、決して「反社会的な生き方」を意味しているわけありません。

「脱社会」は、社会の枠から外れた生き方。

言い換えるなら、あらゆる「役割」や「取引」から自由になった状態です。

一方「反社会」は、社会の枠の中で、それに抵抗する生き方。

準じていようが、反していようが「社会」というものに関与しているという意味では、同列です。

そうして世俗を離れるところに「出家」がある。

なのに、某女優さんは、「出家して教団においての新しい役割を担う」なんてことになってしまった。

あらゆる役割・取引から自由になるところに「出家」があったはずなのに……。


モーフィアスが薬の選択を求めるあのシーンは、まさに「出家」の意思を確認する、そんな意味合いですよね。