水のたとえは素敵ですね。

「上善は水の如し」じゃないけれど、古くから様々な角度でメタファーと使われてきたのも頷けます。

さて、今回は阿部さんの独り言に乗って、「濁り水」のお話をしたいと思います。


本来清らかな水を濁らせているものは何なのか。

それが、「観念」「言葉」なのだと思うのです。

人それぞれ、『人生』という水に「観念」「言葉」という味付けをして飲んでいる。

そういう意味では、「濁り」というより「調味料」や「香料」「添加物」といったところでしょうか。

砂糖を加えて甘くする人もいれば、塩を加えて辛くする人もいる。


「ノドが乾いているなら、砂糖水や塩水ではなく、真水を飲んではいかがですか?」と投げかけても、「それは味も素っ気もなさそうだ。どうせなら某かの味の付いたものをくれ」と返されてしまう。

このやりとりが、古くから宗教・精神世界で続いていたように感じられます。


塩水は、飲めば飲むほどノドが渇く。

人の飽くなき欲望は、そこに端を発っしているのでしょう。


まさに、

衆生近きを知らずして

遠く求むるはかなさよ

譬えば水の中に居て

渇を叫ぶが如くなり

ですね。