降参のススメ

阿雲の呼吸

雲黒斎

Rebirth

天河神社の件、改めましてお誘いくださいましてありがとうございました。

あの参拝から今日に至るまで、何度かその感想をブログなどで記載したいとは思ってはいたのですが、なかなか言葉に出来ずにおります。

決してインパクトのある出来事ではなかったのですが、現地で感じた不思議な感覚は、これまで阿部さんが「天河は人生の転機となるところ」とおっしゃっていたことを、肌で理解できるものでした。

非常に稀な星回りで迎えた新月の夜。

「母の胎内」と同じ氣。

陰の氣と陽の氣が交わるゼロポイント。

堀澤祖門さんではないですが、まさに『再誕』というキーワードがしっくりくる場でありました。

これまで神社やパワースポットなどと呼ばれる場でも、特に何かを感じることもない不感症気味な僕ですら、「え?」となれる何かが確かにありました。

でも、それを言葉に残そうとすると、途端に別物、大げさなファンタジーになってしまうのです。

また、参拝を通じて、フィジカルな次元で目に見える変化や御利益があったのかと問われても、「いや、特には何も」となってしまうわけで。

これまで阿部さんが多くを語らず「とにかく一度訪れてみてほしい」と仰っていたのが妙に納得できました。


>なにかインパクトがあることをしたかったわけでもなく、なんであれをやったのかは説明不能。
>来てくれた人達も、なんで自分があんなに遠いところまで来たのか解ってないんじゃないだろうか。
>こういうことって「やること」じゃなくて「起こること」なんだろうね。
>黒斎くんだって、いきなり強く勧められて、何が何だか分からないまま来たんじゃない?

まさにおっしゃる通りでして。
なぜ行ったのかもわからなければ、行って何があったのかもわからない。

でも、きっと後々振り返った時に、「ああ、そういうことだったのか」と思える予感は、ヒシヒシと感じています。

衆生本来 真水なり

水のたとえは素敵ですね。

「上善は水の如し」じゃないけれど、古くから様々な角度でメタファーと使われてきたのも頷けます。

さて、今回は阿部さんの独り言に乗って、「濁り水」のお話をしたいと思います。


本来清らかな水を濁らせているものは何なのか。

それが、「観念」「言葉」なのだと思うのです。

人それぞれ、『人生』という水に「観念」「言葉」という味付けをして飲んでいる。

そういう意味では、「濁り」というより「調味料」や「香料」「添加物」といったところでしょうか。

砂糖を加えて甘くする人もいれば、塩を加えて辛くする人もいる。


「ノドが乾いているなら、砂糖水や塩水ではなく、真水を飲んではいかがですか?」と投げかけても、「それは味も素っ気もなさそうだ。どうせなら某かの味の付いたものをくれ」と返されてしまう。

このやりとりが、古くから宗教・精神世界で続いていたように感じられます。


塩水は、飲めば飲むほどノドが渇く。

人の飽くなき欲望は、そこに端を発っしているのでしょう。


まさに、

衆生近きを知らずして

遠く求むるはかなさよ

譬えば水の中に居て

渇を叫ぶが如くなり

ですね。

思ってたんと違う

どんなカテゴリーにしてもそうだとは思うのですが、宗教やスピリチュアル、精神世界などでは特に、多くの「誤解」が付きまとっているように感じます。

僕自身、かつてはひどく宗教やスピリチュアルを毛嫌いしていましたし。

いや、正確には「毛嫌い」するというよりも、まったく眼中にありませんでした。

どんな教えなのか、何が語られているのかもまったく知らないまま、「怪しい」「いかがわしい」といったレッテルを貼り、それらに傾倒する方々を鼻で笑っていたというか。

「人生がうまくいっていない人、社会との円滑なコミュニケーションがとれない可哀想な人、あるいは、いい人ぶりたい人の吹き溜まり」みたいなイメージがあって、「僕はそんなところに足を踏み入れたくない」と距離を置いていたんです。

いま思えば、ひどく偏ったものの見方をしてたもんだと苦笑いしてしまいますが、実際のところ、僕もあの一瞥がなければ、そんな感覚を持ち続けたままだったでしょう。

きっと僕たちの活動においても同様で、話の内容を把握できていないまま、なんとなくで「いかがわしい」って思われてるところもあるんでしょうね。

実際、ブログのコメント欄を見ると「そういうことじゃないんだけどなぁ」という書き込みがチョイチョイ。

かつてそういう立場で世界を見ていたからこそ、その気持ちも十分わかるんですよね。

でも、実際にその気づきを目の当たりにしたら、きっと「ああ、そういうことだったのか」「思ってたんと違う!」ってなると思うんですね。

これは、否定派も、肯定派も同様に。

それこそ、僕も阿部さんも、言ってみれば宗教的にも門外漢ですし、何がしかの証拠を示せるような事柄でもないわけですから、なおのこと怪しさ倍増、胡散臭さ汁だくなのですよ。

阿部さんは、僕以上に何年・何十年とお話を続けてこられたわけですから、やっぱり「そういうことじゃないんだけど……」と、あらぬ批判を浴びることもあったと思いますが、そんな中で一番に感じる『誤解』『勘違い』って、どんなところだと思いますか?



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出家

いや〜、ごめんなさい。

なんだかんだと小忙しくて、気がついたら1週間が過ぎちゃってました……。

ホントにあっという間だなぁ。

さて、そんな時の流れの早さを感じつつ、マトリックスを思い出してみれば、あの映画が公開されたのは1999年。

なんと、もう18年も前なんですね。

あの年に生まれた子が、高校卒業しちゃうよ!

そりゃ僕もオジさんになるし、ウォシャウスキー兄弟もいつの間にか姉妹になるわけだ……。


ところでこの映画の中では、高度に発達したコンピューターが作り出した仮想現実を『MATRIX』と呼んでいるけど、本来『MATRIX』は、ラテン語の「母」を意味する「mater」から派生した言葉。

それが転じて「母体」「基盤」「基質」「そこから何かを生み出す背景」などの概念を表すと言われています。

だから、その意味合いは『道(TAO)』と同じなのかもしれません。


色々なメタファーや示唆に溢れるこの映画。

気づくとついつい「なるほど!」と膝を叩いてしまう名シーンが多々あります。


「自我」のメタファーである「エージェント・スミス」は、主人公「ネオ」を夢(仮想現実)に留めようとします。

彼は決して、「ネオ」を「ネオ」とは呼びません。

「ミスター・アンダーソン」、必ずそう呼びます。

「何者でもない」、ある種の「記号」としての名ではなく、
「ミスター・アンダーソン」という「社会的役割」「パーソナリティー」に呼びかけて「社会(仮想現実)」に引き戻そうとします。

人は夢の世界に生きているから、夢の話に惹かれる。

これは、「人は社会に生きているから、社会の話に惹かれる」と言い換える事ができますよね。

「人は社会に生きている」、この当たり前が当たり前と感じられるからこそ、夢の中にいることに気づくのは難しい。

だから、社会から逸脱してしまわなければいけないのだけど、この「社会から逸脱する」という言葉もまた、誤解を生んでしまう。

「社会から逸脱する」というのは、「脱社会的な生き方」のことで、決して「反社会的な生き方」を意味しているわけありません。

「脱社会」は、社会の枠から外れた生き方。

言い換えるなら、あらゆる「役割」や「取引」から自由になった状態です。

一方「反社会」は、社会の枠の中で、それに抵抗する生き方。

準じていようが、反していようが「社会」というものに関与しているという意味では、同列です。

そうして世俗を離れるところに「出家」がある。

なのに、某女優さんは、「出家して教団においての新しい役割を担う」なんてことになってしまった。

あらゆる役割・取引から自由になるところに「出家」があったはずなのに……。


モーフィアスが薬の選択を求めるあのシーンは、まさに「出家」の意思を確認する、そんな意味合いですよね。

方便は、方便だから

>黒斎くんは、こういう例えが上手だから人に伝わりやすいんだと思う。

 

>とは言うものの黒斎くんには、このことが読み手に上手く伝わったとしても、何らかのジレンマが残るんじゃないだろうか。


はい、仰るとおりです。どんなに上手い例えができたとしても、結局、例えは例えでしかなくて、「そのもの」を話したことにはなりませんからね。

そして、「そのもの」は決して言葉にできるものではないときてる。

言葉が消失した世界を言葉で伝えようとしているわけですから、なかなかに歯がゆいです。


感情と思考と経験のすべてが失敗したとき、最後に言葉が使われる。

言葉はじつは、最も非効率的なコミュニケーション手段だ。最も曲解されやすいし、誤解されやすい。

どうしてか? それは言葉の性質のためだ。言葉はただの音にすぎない。感情や思考や経験の代用だ。シンボル、サイン、しるしでしかない。真実ではない。ほんものではない。



上記は、N・D・ウォルシュさんの著書『神との対話』の冒頭に記された一文ですが、本当にその通りだと思います。

僕の例え話や雲さんの話も同様に、様々な誤解を生む要素をはらんでいます。

だからこそ、言葉にジレンマはつきものです。

だっていくら理屈が分かっても、最も大切な「自分は実体ではなかった」ということを完全に知るには、自己を超える経験がない限り無理だと思うから。

阿部さんのこの言葉は事実で、また、例え話でもありません。

それでも、「自己を超える経験」という言葉が「自己」ありきで語られざるを得ないですよね。

そもそも「自己」はあったことがないのですから、それを「超える」ということも、本当はないわけで。

そうやって粗を探そうとすれば、どんな言葉にも欠点が見つかるような気がします。


方便は、どこまでいっても方便。

それでもこうして言葉を紡ぐことを続けているのには、いくつか理由があって。

言葉は、「観念の世界」にリアリティを持たせ、「幻想」を「現実」に書き換えてしまいますが、その一方で、言葉がその幻想を打ち砕き、夢から覚めるきっかけを与えてくれる力もあります。

それは、そう簡単なことではありませんが、だからこそ面白いのかもしれません。

方便は、僕たちが慣れ親しんだ常識やルールに亀裂を入れるもの。

その心構えがあるとないとでは、メッセージの意味が違って見えてくるでしょう。

常識を持ったままでは、まったく意味がわからない内容でも、「常識とは少しズレたところから発せられているのだ」という前提で向かい合えば、きっと「あ!」が訪れる。

そういうものだと思います。

『J MPWF ZPV』
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