降参のススメ

阿雲の呼吸

雲黒斎

抽象を生きる大和魂

恐ろしく的外れな新興宗教やカルトは別として、それがどんな宗教であれ、その根っこで指している世界は同じものだと思います。

しかし、その指している世界は、相対を超えた絶対の世界で、表現不可能なとても抽象的なもの。

それが、「宗派」や「教え」といったカテゴライズによって、具体的に示されてきました。

(その中において『禅』は、抽象を具体化することなく、抽象のまま指すことに特化しているわけですが)


ヒンドゥ教も、イスラムも、キリスト教も、仏教も、

指している先は皆同じ。

ただ、その差し方や指の形が違うだけ。


おそらく、この「日本」という土地は、元来「抽象世界を生きる」ということが得意なところだったのではないでしょうか。

指(表現)の方ではなく、その指が示す「そこ」を捉える事ができたからこそ、さまざまな宗教観を受け入れ、神仏混交の文化を形づくることが出来た。

他国では当たり前ではない「共感」が、当たり前にできるDNA。

それが刻まれているのが、僕たち日本人なのだと思います。

指(表現)の方ではなく、その指が示す「そこ」を捉える事ができたからこそ、さまざまな宗教観を受け入れ、神仏混交の文化を形づくることが出来た。

はたまた、宗教という「カタチ」に固執する必要もなかった。

かつてOSHOは「宗教と宗教性はまったくの別物」とお話されたそうですが、まさにこの「宗教性」を、教えられなくとも活かすことに長けているのが、大和魂なのでしょう。


この柔軟な感性とスタンスが、これからますます海外に輸出され、某かの影響を与えていくように思います。

いえ、厳密には、もうすでに様々な形で影響を与えているのですが。


昨今、阿部さんも繰り返しお話されている通り、来年以降はこの流れが加速しているのだろうと、僕も感じています。

Rebirth

天河神社の件、改めましてお誘いくださいましてありがとうございました。

あの参拝から今日に至るまで、何度かその感想をブログなどで記載したいとは思ってはいたのですが、なかなか言葉に出来ずにおります。

決してインパクトのある出来事ではなかったのですが、現地で感じた不思議な感覚は、これまで阿部さんが「天河は人生の転機となるところ」とおっしゃっていたことを、肌で理解できるものでした。

非常に稀な星回りで迎えた新月の夜。

「母の胎内」と同じ氣。

陰の氣と陽の氣が交わるゼロポイント。

堀澤祖門さんではないですが、まさに『再誕』というキーワードがしっくりくる場でありました。

これまで神社やパワースポットなどと呼ばれる場でも、特に何かを感じることもない不感症気味な僕ですら、「え?」となれる何かが確かにありました。

でも、それを言葉に残そうとすると、途端に別物、大げさなファンタジーになってしまうのです。

また、参拝を通じて、フィジカルな次元で目に見える変化や御利益があったのかと問われても、「いや、特には何も」となってしまうわけで。

これまで阿部さんが多くを語らず「とにかく一度訪れてみてほしい」と仰っていたのが妙に納得できました。


>なにかインパクトがあることをしたかったわけでもなく、なんであれをやったのかは説明不能。
>来てくれた人達も、なんで自分があんなに遠いところまで来たのか解ってないんじゃないだろうか。
>こういうことって「やること」じゃなくて「起こること」なんだろうね。
>黒斎くんだって、いきなり強く勧められて、何が何だか分からないまま来たんじゃない?

まさにおっしゃる通りでして。
なぜ行ったのかもわからなければ、行って何があったのかもわからない。

でも、きっと後々振り返った時に、「ああ、そういうことだったのか」と思える予感は、ヒシヒシと感じています。

衆生本来 真水なり

水のたとえは素敵ですね。

「上善は水の如し」じゃないけれど、古くから様々な角度でメタファーと使われてきたのも頷けます。

さて、今回は阿部さんの独り言に乗って、「濁り水」のお話をしたいと思います。


本来清らかな水を濁らせているものは何なのか。

それが、「観念」「言葉」なのだと思うのです。

人それぞれ、『人生』という水に「観念」「言葉」という味付けをして飲んでいる。

そういう意味では、「濁り」というより「調味料」や「香料」「添加物」といったところでしょうか。

砂糖を加えて甘くする人もいれば、塩を加えて辛くする人もいる。


「ノドが乾いているなら、砂糖水や塩水ではなく、真水を飲んではいかがですか?」と投げかけても、「それは味も素っ気もなさそうだ。どうせなら某かの味の付いたものをくれ」と返されてしまう。

このやりとりが、古くから宗教・精神世界で続いていたように感じられます。


塩水は、飲めば飲むほどノドが渇く。

人の飽くなき欲望は、そこに端を発っしているのでしょう。


まさに、

衆生近きを知らずして

遠く求むるはかなさよ

譬えば水の中に居て

渇を叫ぶが如くなり

ですね。

思ってたんと違う

どんなカテゴリーにしてもそうだとは思うのですが、宗教やスピリチュアル、精神世界などでは特に、多くの「誤解」が付きまとっているように感じます。

僕自身、かつてはひどく宗教やスピリチュアルを毛嫌いしていましたし。

いや、正確には「毛嫌い」するというよりも、まったく眼中にありませんでした。

どんな教えなのか、何が語られているのかもまったく知らないまま、「怪しい」「いかがわしい」といったレッテルを貼り、それらに傾倒する方々を鼻で笑っていたというか。

「人生がうまくいっていない人、社会との円滑なコミュニケーションがとれない可哀想な人、あるいは、いい人ぶりたい人の吹き溜まり」みたいなイメージがあって、「僕はそんなところに足を踏み入れたくない」と距離を置いていたんです。

いま思えば、ひどく偏ったものの見方をしてたもんだと苦笑いしてしまいますが、実際のところ、僕もあの一瞥がなければ、そんな感覚を持ち続けたままだったでしょう。

きっと僕たちの活動においても同様で、話の内容を把握できていないまま、なんとなくで「いかがわしい」って思われてるところもあるんでしょうね。

実際、ブログのコメント欄を見ると「そういうことじゃないんだけどなぁ」という書き込みがチョイチョイ。

かつてそういう立場で世界を見ていたからこそ、その気持ちも十分わかるんですよね。

でも、実際にその気づきを目の当たりにしたら、きっと「ああ、そういうことだったのか」「思ってたんと違う!」ってなると思うんですね。

これは、否定派も、肯定派も同様に。

それこそ、僕も阿部さんも、言ってみれば宗教的にも門外漢ですし、何がしかの証拠を示せるような事柄でもないわけですから、なおのこと怪しさ倍増、胡散臭さ汁だくなのですよ。

阿部さんは、僕以上に何年・何十年とお話を続けてこられたわけですから、やっぱり「そういうことじゃないんだけど……」と、あらぬ批判を浴びることもあったと思いますが、そんな中で一番に感じる『誤解』『勘違い』って、どんなところだと思いますか?



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出家

いや〜、ごめんなさい。

なんだかんだと小忙しくて、気がついたら1週間が過ぎちゃってました……。

ホントにあっという間だなぁ。

さて、そんな時の流れの早さを感じつつ、マトリックスを思い出してみれば、あの映画が公開されたのは1999年。

なんと、もう18年も前なんですね。

あの年に生まれた子が、高校卒業しちゃうよ!

そりゃ僕もオジさんになるし、ウォシャウスキー兄弟もいつの間にか姉妹になるわけだ……。


ところでこの映画の中では、高度に発達したコンピューターが作り出した仮想現実を『MATRIX』と呼んでいるけど、本来『MATRIX』は、ラテン語の「母」を意味する「mater」から派生した言葉。

それが転じて「母体」「基盤」「基質」「そこから何かを生み出す背景」などの概念を表すと言われています。

だから、その意味合いは『道(TAO)』と同じなのかもしれません。


色々なメタファーや示唆に溢れるこの映画。

気づくとついつい「なるほど!」と膝を叩いてしまう名シーンが多々あります。


「自我」のメタファーである「エージェント・スミス」は、主人公「ネオ」を夢(仮想現実)に留めようとします。

彼は決して、「ネオ」を「ネオ」とは呼びません。

「ミスター・アンダーソン」、必ずそう呼びます。

「何者でもない」、ある種の「記号」としての名ではなく、
「ミスター・アンダーソン」という「社会的役割」「パーソナリティー」に呼びかけて「社会(仮想現実)」に引き戻そうとします。

人は夢の世界に生きているから、夢の話に惹かれる。

これは、「人は社会に生きているから、社会の話に惹かれる」と言い換える事ができますよね。

「人は社会に生きている」、この当たり前が当たり前と感じられるからこそ、夢の中にいることに気づくのは難しい。

だから、社会から逸脱してしまわなければいけないのだけど、この「社会から逸脱する」という言葉もまた、誤解を生んでしまう。

「社会から逸脱する」というのは、「脱社会的な生き方」のことで、決して「反社会的な生き方」を意味しているわけありません。

「脱社会」は、社会の枠から外れた生き方。

言い換えるなら、あらゆる「役割」や「取引」から自由になった状態です。

一方「反社会」は、社会の枠の中で、それに抵抗する生き方。

準じていようが、反していようが「社会」というものに関与しているという意味では、同列です。

そうして世俗を離れるところに「出家」がある。

なのに、某女優さんは、「出家して教団においての新しい役割を担う」なんてことになってしまった。

あらゆる役割・取引から自由になるところに「出家」があったはずなのに……。


モーフィアスが薬の選択を求めるあのシーンは、まさに「出家」の意思を確認する、そんな意味合いですよね。
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